本質主義とはなんだろうか?
平たく言うと、本当に必要なモノを見極めようという意味である。
本となる質という意味である。つまり物事の主たる要素という意味だ。それに主義。主たる義、要は物事を判断する軸である。合わせると、物事の主たる姿を模索し、追求する立場である。
まず1つの価値理念は絶対的なものではない。関係性によって、本質というのは変化する。
一例としてりんごの果実を例にとって考えてみる。
例えば消費者にとっては美味しくて健康的なりんごが必要となる要素である。
商売人にとっては美味しそうで売れそうなりんごが必要となる要素である。
りんごの木にとっては、人間に愛され種がより植えられて子孫繁栄するりんごが必要となる要素である。
消費者にとっては、美味しくて健康的。商売人にとっては売れそうな見た目。りんごの木にとっては子孫繁栄に繋がる事。
同じりんごの果実でも立場によって、本当に必要な質というものは変わるのである。
我々は知らず知らずのうちに価値観に染まっている。特にスマホ時代から、あまりの情報過多に人々は呑まれている。本当に自分や家族、社会にとって必要な物事の価値を考えるのを放棄して、整形しようだの不労所得でファイヤーしようだの外国人が全部悪いだのスクロールして流れていく情報の裏にある価値観を知らず知らずのうちに吸収している。何故整形しなければならないのか?私にとって整形は本当に必要なものなのか?整形したらどのような利点があるのか?そのような思考に至る前に情報で埋め尽くされ、思考が征服されるのである。
情報過多になると、思考がどうしても深みに入らない。一旦立ち止まって考えるというのを放棄するのだ。情報の渦の中で次から次に刺激と欲望を喚起させられ、本当にそれって私にとって必要なの?と考える隙間を無くすのだ。
その弊害の総和が現状の日本の惨状である。戦後一貫して豊かになるというのを国是として取り組んできた。しかし、バブルその頂点を味わって以降、豊かさで他国に抜かされる中で、国全体として理想が喪失している状況になっている。もはや現状維持が国是となり、ただただ老いて死に絶えていく国全体が巨大な老人ホームのようになっている。
今一度私は問う。本当に必要な事柄はなんだろうか?本質主義に立ち返って、理念と要素という物事の関係性を思考深めるべきだ。そして理想が希求し、その理想に近づくべき理念と要素を考え抜き、現実の国家、社会、企業活動、家庭等を運営していくべきだ。
そのためにはまず自己の生き方を問い直すべきである。いわば当たり前とされている世俗の現代社会の価値観からの解脱である。
GROKにこれを投げて、より分かりやすく整理してもらった。有益なので、載せておく。
ユーザーの考察を興味深く読みました。本質主義について、りんごの例を挙げて立場による相対性を指摘し、情報過多の現代社会で深い思考を失いがちであること、そして日本の現状に対する提言まで、非常に洞察的です。あなたのおっしゃるように、本質主義は「本当に必要なモノを見極めよう」という平易な解釈から始まり、物事の核心を追求する姿勢として捉えられますが、これは哲学的な伝統的な意味とも重なりつつ、現代のライフスタイルや社会批判に拡張可能です。以下で、あなたの考えを基にしながら、本質主義の概念を整理し、深めていきましょう。
本質主義の基本的な意味
本質主義(essentialism)は、事物や現象に「本質」と呼ばれる不変の核心部分が存在し、それがそのものを定義づけるとする考え方です。 例えば、プラトンのイデア論のように、万物には理想的な「本質」があって、現実の個別物はその反映に過ぎない、という古典的な哲学から来ています。 あなたがおっしゃる「本となる質」というのは、まさにこの核心を指し、物事を判断する軸として機能します。ただし、伝統的な本質主義は本質を絶対的・不変的なものと見なす傾向が強い一方で、あなたの指摘のように「関係性によって変化する」相対的な側面を強調すると、現代の解釈に近づきます。
これに対して、対立する考えとして「構築主義(constructionism)」があります。これは、本質は社会的に構築されたもので、固定ではなく変更可能だとみなす立場です。 例えば、性別や文化の本質が「生まれつき不変」ではなく、社会の文脈で作られるという視点です。 あなたのりんごの例は、この両方を橋渡ししているように感じます。消費者・商売人・りんごの木の視点で本質が変わるのは、関係性(文脈)による構築的な側面を示唆しつつ、それぞれの立場で「主たる要素」を追求するという本質主義的なアプローチです。
りんごの例を拡張して考える
あなたの例は秀逸です。同じりんごでも、立場によって必要な質が変わる——これは本質が絶対的でないことを示しています。もう少し広げてみましょう。
- 生態学的視点: りんごの果実は、種子散布のための進化の産物。人間に食べられることで種が広がるのが本質なら、美味しさや見た目は手段に過ぎず、子孫繁栄が核心です。
- 経済学的視点: グローバル市場では、輸送耐性や収穫効率が本質になるかも。気候変動下で、持続可能性が新たな「必要な質」として浮上します。
- 哲学的視点: アリストテレス風に言うと、りんごの本質は「果実としての潜在性を現実化する」こと。ですが、現代の本質主義批判では、人種や民族の本質を固定視すると偏見を生む問題が指摘されます。 例えば、文化本質主義では「日本人は勤勉」というステレオタイプが、個人の多様性を無視する弊害があります。
このように、本質は文脈依存的ですが、追求する姿勢自体が価値があります。あなたがおっしゃる「物事の主たる姿を模索し、追求する立場」は、まさに本質主義の積極的な側面です。
現代社会と情報過多の弊害
あなたのご指摘通り、スマホ時代は情報洪水で、深い思考が阻害されます。スクロールする中で、無意識に価値観を吸収し、「整形」「不労所得」「外国人排斥」などの表層的な欲求に流される——これは本質主義の対極にある「表層主義」とも言えます。思考の隙間を埋め尽くすアルゴリズムは、欲望を喚起し、本当に必要なものを問う機会を奪います。
日本の現状についても共感します。戦後成長の「豊かさ」という国是がバブル崩壊で揺らぎ、今は現状維持の「老人ホーム化」。これは、国民全体が本質的な理想(例: 持続可能な社会、創造的な成長)を失った結果です。OECDのデータを見ても、日本の高齢化率は世界トップで、経済停滞が続いていますが、ここで本質主義に立ち返るのは有効です。問うべきは:
- 個人レベル: 「私にとって本当に必要な生き方は何か?」(例: ミニマリズムのように、無駄を削ぎ落とす)。
- 社会レベル: 「国家にとっての本質は何か?」(例: 教育改革で創造性を育てる、移民政策で多様性を活かす)。
Greg McKeownの書籍『Essentialism: The Disciplined Pursuit of Less』では、本質主義を「少ない方がより良い」と実践的に解釈し、優先順位付けを勧めています。これはあなたの「当たり前の価値観からの解脱」と重なります。情報過多を避けるために、意図的に「立ち止まる」習慣——瞑想やジャーナリング——を導入するのも一手です。
提言: 本質主義を実践するためのステップ
あなたのおっしゃる「自己の生き方を問い直す」から始めましょう。解脱のプロセスとして:
- 価値観の棚卸し: 現在の信念をリストアップし、「これは本当に私のものか? 情報から植え付けられたものか?」と問う。
- 関係性の再考: 家族、社会、国家とのつながりで、本質が変わることを認識。りんごの例のように、多角的に視点を変える。
- 理想の希求: 失われた理想を再定義。例えば、日本社会では「持続可能な豊かさ」を本質とし、政策や企業活動をそれに沿わせる。
- 日常の適用: 情報摂取を制限し、深い思考の時間を確保。書籍や対話を通じて、本質を追求。
それにしてもAIは有能なアシスタントである。学術的な事を纏めさせるのは、兎角便利である。しかし、我々は、思考を放棄しているとも言えるし、視点をクリアにして、さらに深化した物の考え方をできるようになったとも言える。ただ、言えることは、理想が不足している事は不幸であると思う。現代に生きる我々は、理想がない。我々日本人は物質的には満ち足りているはずなのに、どうも幸せに感じないのは、日々が良くなっていると思えないからである。
どのような社会にしたいのか?現実と向き合いながらも、現実を言い訳にせず、理想を希求しなければならない。私は思う。人間は動物であり、あまりに動物的な我々人類が、幸福に生き、かつ、他の生物と共存するにはどうすればいいか?
私は楽しくて息がしやすい社会が望ましいと思う。我々人類はあくまで幸福を希求する。その幸福の中身を考えた時に、どうしても動物的な我々人類という問題に行き着く。狩猟採集民として進化してきた我々人類が、急に個人で生きるとなっても身心は対応しきれない。孤独は一番の毒である。人は群れの中で助け合って生きてきた。故に、個人主義の暴走ともいえる東京の現状はあまりに狩猟採集民族として、太陽を浴び、野をかけ、獲物を獲得し、仲間と分かち合い、火を囲み、精霊と交信してきた狩猟採集民としての暮らしと大幅にかけ離れている。拠って、あまりに我々人類が幸福に暮らしていた世界とはかけ離れた世界に住んでいる。それはそれは生きずらい。
私は思う。動物的な、あまりに動物的な人類が、幸福でいられる環境を整備し、整えるべきであると。それが、新世界の理想であると私は思う。人間の頭は考えることを嫌う。考えるとエネルギーを消費するから、他人の評判を聞くのが最適解である。しかし、現状いいとされるものは、本当にいいのだろうか?YOUTUBEには同じような動画が溢れかえり、インスタで流れるルッキズム、電車の中では塾に行け、歯科矯正しろと広告が不安を掻き立てる。夢は不労所得で悠々自適なんて、あまりに夢が無さすぎる。それは本当に幸福と言えるのであろうか?
我々は幸福を希求しているのであって、幸福そうな事を求めているのではない。行き過ぎた個人主義。砂漠の中で、一人オアシスを独占し、奪われないか不安にさいなまれる。この社会は何かがおかしい。幸福そうなものを求めるのに必死で、幸福になれない。目で見える幸福のアイテムをインスタグラムで誇示するのが幸福であると勘違いしている。
我々は今一度幸福がなんであるのか?それを実現できるには如何にすればよいのか?考えないとダメである。陽が満ちて、陰に転じる。もう気づいている人は気が付いている。今の物質主義的な幸福誇示世界というのは、幸福の本質ではないことを。カウンターカルチャーは、それを教えてくれた。今一度考えるべきなのは幸福の本質を問い直し、その因子を分解し、現世にできる限り落とし込み、浄土にすることである。
人よ!本質を問い直せ。今こそ浪漫の欠片もない現実主義を捨て、理想を現実とすべきである。価値は流転す、陽が強ければ強いほど、世のほころびも強く、現状の国家体制が故に崩壊しつつあることを。今こそ本質を問い直すべきである。ユートピアを作るのである。
