幻想と楽しい事に対する考察
幻想は、他者の夢である。楽しい事は自身の体験である。往々にして人は、幻想を楽しくて、素晴らしい事として扱っている。しかし、それは自身の事ではなく、あくまで幻想である。
資本主義社会においては幻想があくまで価値がある。金銭だったり、知名度であったり、みんなが分かりやすく良いと思うものに価値がつき、商品になる。
しかし、みんなが良いと思う共同幻想と楽しい事というのは、混合されがちであるが違うものである。
楽しい事というのは、あくまで主観の話である。個人個人によって、同じ経験をしたとしても、その結果としての感情は個々で違う。
よって、共同幻想のみが、唯一の楽しい事のフォーマットとして、商品化され、良い事として流布されている。そして、インターネットによって、加速度的に幻想は膨らんで、楽しくて、キラキラした憧れを形成し、商品になる。しかし、それはあくまで共同幻想でしかないために、その個人が楽しいか否かというのとは別問題である。
みんな知っている有名ミュージシャンの公演が面白いか否かというのは全く別問題の話であり。港区のタワーマンションの生活は憧れられるが、楽しい生活であるか否かは別問題である。
そして、楽しい事というのは、猛毒であり、不可逆的な、体験である。何故かというと、人間は新しい経験に、喜びを感じる生き物だからだ。つまり、同じ経験をしても、2度目の経験は脳は情報処理において、経験した事としてスムーズに処理してしまう為に、2度目の経験は、感情が湧き立たないのである。
自分の経験則で言えば、昔はヘッタクソな小箱のライブを見に行くとかでも楽しかったのが、今では野外で自分がライブしないと面白くなくなっている。楽しくて、満たされる条件というのが、楽しい事を経験し過ぎたあまりに、ハードルが上がりすぎてしまったからである。
人間の感情は、不合理極まりないものである。楽しい事を求め続けた先に、産まれたのは、上がりすぎた楽しいのハードルを、どう処理すればいいのか分からなくなってる化け物である。40歳を目前にして、通常の人間が共同幻想を追い求めて、生きてきているのに対して、私は、あくまで自分の楽しさという新異性の刺激以外求めてない。そして、自身のアートの天才性は、狂気じみた本質的な楽しさの希求によって成立している。
2024年12月の記事。行き場のない気持ち。変われない自分の魂の姿。どうしたらいいのだろうと困惑しているように思える。