労働と幸福

我々人類は幸福について久しく希求している。これをまず前提に置こう。そして、労働は幸福を希求する手段である。労働を通じて我々は誰かの役にたち、社会に貢献し、対価として見返りを得て生活をする。

これはある種、理想とされうる労働の姿である。そして労働はまた、賃金という形だけではなく、主婦の家事労働、独り身の自炊、近所の草刈り、犬の世話など多種多様の形がある。アマチュアアーティストである私がライブする事も、お客さんに感動を届け、見返りに名声を得るという意味では労働と言える。

翻って、泥棒はどうだろうか?泥棒は盗みという労働で金という対価を得る。泥棒の仕事は盗みなのだから、それで金を得るのは労働とも言える。しかし、他者を不幸にする。これは法に触れるから非難される行為である。

では、現代社会はどうであろうか?よくあるのが情報商材。これを買って勉強すればお金持ちになれますと騙しガラクタに金を払わせ富を得る。これは労働であろうか?法律に違反していないだけで、泥棒と変わりはないではないか?

どうも最近は受け手の事を考えてない労働が増えている。人の必要としてない、正確に言えば人を幸福にしない労働が増えている。どうも、無理に人の心の隙間に入り込みああだこうだコンプレックスを刺激して、幸福に繋がらない商品を売りつける。電車に乗ると、整形しろ、勉強しろ、投資しろと広告がわんわん吠えてくる。

そもそも論、現代社会において、本当に必要なものというのは数少ないのではないかと思う。実際の所、ほとんどものは生活する上で必要ではないし、幸福にも繋がらない。あくまで動物である我々人類は人や社会に承認され、必要とされる事で幸福になるのだ。どうも何かがオカシイのである。

それは労働が金という媒介を通じているからだ。金は便利な交換券ではあるが、本来、人を幸福にする対価として金は得られるべきである。しかし、必ずしも人を幸福にせずとも得られる金も金である。よって、不必要な労働がどうしても跋扈している現状になってしまう。

どうも、道徳心が欠けてきている。騙し合いの世界である。それこそ餓鬼の世界ではないか?我々人類は幸福に生きたいのに、己の幸福の希求が他者の幸福を奪う。それを恥と思わぬ輩で満ちた社会はどうも不幸せである。我々の労働は人を幸福にすべきである。それでこそ世は幸福で満ち溢れるのでないであろうか?

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