「アーティストというものは、優秀であればあるほど、幸福とはかけ離れているんだよ。知っているか?凡庸なアーティストほど幸せだって。何故かって?凡庸なアーティストは自身の作品のアラなんか分からないし、なんでも楽しいのだから」
目の前にいる老人は、物知り顔で言ってくる。老人ホーム勤務。駆け出しのアーティストの私は、はいはいと受け流し、その老人の身体を拭く。
「君はマリファナをやるかい?あれは毒にも薬にもなる。あれをやるとなんでもよくなるから、段々とデタラメになるんだ」
マリファナという言葉に、私はドキっとした。私はマリファナをやるが、そんなのを職場で公言なんて、もってのほかだ。
「あはは、やらないですね〜」
私は、その老人と目を合わせずに、職務をこなす。余計な事は持ち込むべきではないから。
「それが良い。あれを吸うと、馬鹿になって、なんでもいい作品になるからな。お客さんには存分に吸わせといて、自分は吸わないのが肝だ」
そう言われると愛煙家の私はカチッときた。マリファナは自分の緊張の糸をほぐして、思いがけない発想が得られるのに!と喉から言い出しそうになった。
「そうなんですね〜」
あくまで老人ホーム勤務の私は仮の姿。ステージでキラキラ輝く本当の私ではない。偽物の私は偽物を演じきるのが世の処世術だ。
「大衆の望んでいるものと、自身が望んでいるものが違う事に気づいた方がいい。大衆は、複雑な事は一切分からない。キラキラして、ポジティブで、みんなが良いと思う、心地が良いものを求めているんだ。感受性が鈍くて、馬鹿だと思いながら、玄人好みの作品は捨てて、馬鹿にあわせて作らないと誰からも見向きもされない」
この老人は一体全体何を言っているのだろうか?アーティストは好きな事で、お金を稼ぐ、素晴らしい職業であって、みんなから憧れられる存在で、その時の大衆の心を歌うものなのに。
「大衆は馬鹿なんですかね?アーティストが、その対象を馬鹿にしているなんて、詐欺師みたいなものじゃないですか」
思わず反論してしまった。そして、その言葉に老人は、嬉しそうに言葉を吐き出した。
「大衆は馬鹿というのは語弊があったかもしれん。しかし、専門家ではない。車の専門家が車の事に詳しいのに対して、我々は素人であるのと一緒だ。大勢の消費者は素人で、芸術に関して、複雑な事は何一つ分からない。音楽は大衆芸術である以上、それで食べているアーティストは大衆の奴隷でもある」
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「言っている事がよくわからないです。アーティストは大衆から憧れられる、代弁者で、素晴らしい存在なんですよ。私はみんなから愛されるアーティストになりたいんです」
もはや、その老人の身体を拭くのすら、忘れ、反論してしまった。仮の姿、失格。
「若いの。うらやましい。君が芸術を深く知れば知るほど分かる。君のそのアーティストへのイメージは幻想だって。何一つ分かってない大衆への絶望。無知蒙昧の民に、なんとか味わってもらおうと、自分の好みとは、全く違う味を、これなら受け取ってもらえるだろうと、四苦八苦して、作り出す作品の労苦を!君が望んだアーティストになれば分かるだろう」
普段は遠い目でなにかをみているような老人であるのだが、今のその姿は全く別人であった。
「さっきからなんですか!そんなに貴方は有名なアーティストなんですか?」
「聴いてみるかい?この曲のコンポーズは私じゃよ」
その老人はユーチューブをひらいて、音楽を再生した。それは四十年前にヒットした私も知っている愛と勇気と友情を歌う国民的認知度のアニソンであった。優しい温かみのある力強い歌。
「こんな有名な!この曲好きです!でも、この曲も大衆が馬鹿だと思って作ったのですか?そんなの悲しいです!」
私の言葉に老人は、意気揚々とスムーズに吐いていた言葉を止め、少し考えて、こう答えた。
「愛じゃよ。自分の好みから外れ、分からないなりに大衆の心理を考えて、分からない人に分かるように作った私なりの愛さ」